人間の真価は『絶望』や『絶体絶命』の時にこそ発揮されます。
火事場の馬鹿力が発揮されたとき、人はレベルが上がります
そして『人生のステージ』をワンランク上げることができます。
今回は、私自身で恐縮ですが、あくまで例として紹介します。
話は私の中学生時代に遡ります。
中学生最初の中間テスト、私は学年トップを取りました。
学区の統合により、学年の人数は一気に120名を越えていました。その中でのトップです。
「やべ先輩すごいっすね」
同級生にも関わらず、先輩呼びするクラスメイト。私は有頂天になっていました。
小学生時代の孤独感から性根が歪んでいた当時の私。
男女問わずにちやほやされて「やっと俺の偉大さの分かるやつが現れたか」と調子に乗っていました。
しかし、私はとんでもないトラップによって一瞬で学年最下層まで転落します。
ラブレター回し読み事件によって。
当時、隣のクラスで気になる女の子がいたんです。
女子クラスメート経由で交換日記からのラブレター交換をしていたのですが、その内容が他のクラスメートに伝わっていたのです。
「やべ、面白いな。僕の大事な薔薇ってwww」
「うわっマジ?キモ過ぎ」
「おまえみたいな陰キャがモテるわけねーだろ!バーカ」
そう、初めからネタにされていたのです。
さらに悪いことに、私が交換していた女の子、実はヤンキーと付き合っていたんです
「おいやべ、根暗のくせにいい根性してんな!」
ヤンキーが腕を掴み教室から外に出そうと私を引きずります。恐怖に怯え涙に濡れる私を尻目に、クラスメート達は好奇と軽蔑の眼差し。
公開処刑直前の死刑囚をからかうような仕打ちを受け私は世界を呪いました。
ようこそ、修羅の国へ!
トイレに引きずり込まれた私は、待ち構えていた他の生徒からバケツの水を浴びせかけられました。
「ガリ勉様のドブネズミ~」
「俺のオンナに手を出すなんざ、調子に乗ってんじゃねーよ!」
ヤンキーと取り巻きから浴びる悪口雑言、濡れネズミになった私にさらに追い打ちが来ます。
「ドブネズミには便所の水がお似合いだ、ほら飲め、飲めやぁああああああ!」
つんざくようなヤンキーの咆哮、大便器の前に顔を押し付けられ飲まされそうになったのです。絶対絶命、とその時
「お前ら何やってんだぁあああああああ!」
強面の体育教師がやってきました。彼らは体育教師をあざ笑いながら全力で逃げていきました。
こうして、便所の水を飲まされるという最大の危機は免れましたが、その日以来、学校に行くのが怖くなりました。
仮病を使って学校を休んだある日。
両親は仕事でいません。ぽかぽか陽気の日差しを受けながら、虫眼鏡片手に正座して新聞を読んでいた祖母。
先日の恐怖で生きる勇気を完全に失っていた私は、思わず本音をぶちまけてしまいました。
「ばあちゃん、俺死にたいよ…」
一瞬の沈黙の後、虫眼鏡と新聞を下に置いて祖母が静かに返しました。
「アンタがそうしたければそうすればいい。だけどばあちゃんは悲しいよ。」
うっすらと目に涙を浮かべた祖母。言葉は続きます。
「アフリカじゃ、飢えや病気で生きたくても生きられない子供がたくさんいる」
「・・・・」
「あんたは恵まれてるから生きろ、とは言わない。だけど、世の中には生きたくても生きられない人もたくさんいる、そのことだけは覚えておきなさい。」
祖母の涙は頬を伝います。少し唇を噛み締めて沈黙する祖母。
私はハッとしました。
祖母も病気で祖父を亡くし、曾祖父も鉱山での転落死で失った身。
生を全うすることの難しさを身近に感じていた祖母にとって、自ら命を絶つという考えは許せなかったのかもしれません。
すぐに学校に行けるようになったわけではありませんでしたが、祖母の生きたくても生きられない人がいる、この言葉が深く身に刻まれた瞬間でした。
私がいた中学校、通称「西中」
市内の札付きのワルが集められた、不良のエリート校。
BOOWYや尾崎豊が神として崇められた別空間
授業中でもガンガンロックが鳴り響くこの学校。
時には窓ガラスが割られ、時には火災報知器がけたたましいベルを鳴らします。
パトカーが出動し、生徒と警官の追いかけっこやバトルが繰り広げられる、まさに「修羅の国」
ここにおいて、喧嘩の弱いもの、処世術のない人間は、ピラミッドの底辺でイジメの洗礼を浴び続けるしかありませんでした。
私は決意しました。よし、喧嘩に強くなろう!
まず筋トレをはじめました。
家にあるコンクリートブロックに紐を通し取っ手を付けて出来た「即席ダンベル」。
それを使って毎日、腕が壊れる直前まで繰り返しトレーニングをしました。
もう必死です!DEAD or ALIVE!
弱ければ虫けら扱いですから。環境が悪ければ悪いほど必死になります
そのような地獄のトレーニングをして半年ほど。一部のヤンキーと仲良くなりました。
「あいつ、意外と力があるぞ」
「あいつ、頑張ってるな」
敵であるはずのヤンキーですら、私を見る目が変わってきたのです。
「おいやべ、昼休み柔道部室でベンチプレスやるか?」
思いがけない彼の申し出。それを機に、昼休みはベンチプレス、しかもトレーナー付きという強化メニューが付くようになりました。
こうしてモヤシっこのガリ勉は細マッチョに変わり、いつの間にか対人の恐怖心はなくなっていました。
そして、その中で、少しずつではあったけれども、友達も少しずつ増えていきました。
時にはチューハイを飲みかわし、時には盗んだバイクで走ったり。
もっとも、盗んだバイクはパッソルじゃなくてカブだったし、15歳でなく14歳の夜だったのだけど(笑)
こうして、中学3年生を迎えるころには、それなりに楽しい学生ライフを送っていましたが、それが仇になってしまうことに気が付いたのです。
学力が下がりすぎて、受験できる公立校がなくなっていたのです。
当時、ウチは兼業農家でした。家のローンもあり、共働きでも生活はカツカツ。
おやつがふかしたサツマイモの我が家、そんな生活水準で私立高校に行かせるお金などありません。
意を決して、勉強に専念しだしたのは言うまでもありません。私は1年生の時の教科書から遡り、文字通り「死ぬ気」での勉強に追い込まれたのでした。
公立校への合格が決まって迎えた卒業式。
アルバムの中の寄せ書き、そこに書かれたコメントの中には、かつての敵だったヤンキーのコメントと名前が刻まれていました。そして。
「やべ、よく頑張った、高校行っても頑張れよ!」
1年生の時、大便器の水を飲まそうとした、あのヤンキーから右手を差し伸べられたんです。
本気で自殺を考え、祖母の言葉に目を覚まし、死ぬ気で走りぬいた中学生。
その総決算にまさかの結末が待っていたのです。
わたしは3年間を思い出し、握手を返しながらも涙が止まりませんでした。
こうして、私の中学生生活は幕を下ろしました。
今の時代では信じられませんが、昭和のヤンキーは「筋を通す人情味」があったんですね。
そのことを通じて「人は見た目によらない」ことも学びました。
私の人生で大きな転換点にひとつになった中学生時代。いまでこそ笑って話せますが、当時は本当に地獄でした。
そんな私は、今ひとりでも多くの人に生きる勇気を与えたい、そんな気持ちでTwitterもやっています。
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生きてさえいれば勝ちだ!休んでもいい。逃げてもいい。諦めてもいい。誰でもそういう時はある。そして、その後にまた前を向いて歩けばいい。前向きに生きてれば良い事は必ずある。歩き続けて良かったと思える日が必ず来る。これは絶対だ。絶対幸せになろう。人生楽しもう!
— やべっち (@yabecchi_vic) February 3, 2021